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終戦の日に思う

●空中写真

最近は筆界未定地の案件で悪戦苦闘していて、何かヒントが無いかと昔の公図や地積図等の土地の区画が分かる資料を探していました。しかし、それらは戦争で消失したようです。

そのような調べ物をしている中で、公文書館に1945年3月に米軍が撮影した空中写真がありました。USBメモリを持参して受付を済ませば、そのデータをコピーさせてもらえます。今回の筆界未定地に加え、名護の市街地と私の地元のデータも移して持ち帰って来ました。

いろいろ気付きがあって興味深く見ていたのですが、このあと4月から地上戦が始まってめちゃくちゃにされるんだよな…と次第に悲しい気持ちになってきました。もしかすると今回の筆界未定地も戦争による地形の変化に起因するかも知れません。

 

●モノクロ

私は地上戦のあった36年後に生まれ今は42歳ですから、生まれてから現在よりも戦争の時代の方が近くなりました。そのせいもあるかも知れませんし、今はモノクロ写真をカラー化してツイッターに上げる方もいらっしゃいますから、以前よりも戦争当時の写真がより身近に感じられるようになりました。

小学生になって学校で悲惨な写真や映像を毎年6月に見させられました。それを思い出すのでモノクロ写真・映像は怖いというトラウマがあったのですが、最近は悲惨な写真・映像を見ることが無いので段々とモノクロ写真に慣れてきました。

 

●売主が語る

決済で融資の実行を待つ時間が30〜60分程あるのですが、売主が戦争当時のお話を向こうから語ってくることが以前はよくありました。こちらからはなかなか聞けないので、大変ありがたいことですね。

水平線を埋め尽くすほどの船の大軍を見て勝てるわけがないと思ったという話を複数聞きました。

その中には伊江島の戦いが始まる前夜に海を泳いで本部町側へ逃げて来た話もあります。サメに襲われないように少しでも体を大きく見せるためにフンドシを伸ばして泳いだそうです。

外国に出征した方々も一番若くて96〜97歳ぐらいでしょうか。さすがにもうご本人から当時のお話を直接聞く機会は無いかと思います。

 

●広島

私の祖父母は沖縄戦を経験していませんので、今の私がいます。2人とも当時は本土にいました。祖父は広島の造船所に勤めており、原爆投下時は地下工場にいたために爆風・熱線を受けることなく助かったそうです。しかし、被曝しました。最後はその影響で亡くなったので終戦から45年後に亡くなったにも関わらず、戦没者として平和の礎にその名が刻まれています。そのような因縁があるので広島へ行こうと思いつつ、まだ行ったことがありません。カープとの交流戦に絡めてファイターズの応援も兼ねて等と考えています。